糸魚川市の寺院「真宗大谷派 水莖山 雲晴寺」の公式ページをご覧いただきありがとうございます。
寛永12(1635)年建立 糸魚川市 歌(天下の名勝 親不知)の由緒ある寺院です。
聖徳太子、親鸞聖人と深いつながりがあり、報恩講、永代経法要、聞法会などが毎年営まれております。帰敬式も随時行っております。
雲晴寺について
真宗大谷派 水莖山 雲晴寺 沿革
●この寺の山号である水莖山という名の由来は、聖徳太子の時代にさかのぼる。
●聖徳太子27歳の時(約1,400年前)、出羽の羽黒山参詣の途中、この地を通られ、子不知の難所にさしかかり、とても馬が通れないので、*別当跡見市兵衛に馬を連れて都に帰るよう命ぜられた。以降、この地を 「駒返し」と言うようになった。
*別当=役職相当の者
●市兵衛は、都に帰らずこの地に住みついた。その時、聖徳太子は海岸の岩に
「萬代と波はたち来て洗えども 変わらぬものは 水莖のあと」
筆の跡
と書かれて以降、この地は 「歌が浜」と名付けられた。
*古代より、海岸沿いの地名は「・・・浜」と名付けられることが多かった。
●その後、親鸞聖人が越後に流罪になり、この地を通られ、住民にここは何というところかと尋ねられた。住民は「歌が浜」ですと答えると、聖人は「ずいぶん情緒深い地名だが、その由来は何か」と尋ねられた。住民は、「実は聖徳太子の歌がここにあります」と太子の詠まれた歌を指すと、聖人は、
「水莖のあとも遠かれ歌が浜 洗ひながすな八重の白波」
と詠まれた。
●市兵衛の20代後の子孫が文禄年間(1592~95)、約420年以上前、越中山崎(富山県朝日町)眞淨寺の弟子となり、宗永と称した。
●慶長元年(1596)年、宗永は、*
本
山12
代
教如上人
より絵像本尊(5百代)を拝戴して 歌が浜に還り戻り、道場を建立してその留守職となる。
*本願寺が東西に別れて最初のお東の法主
●2代宗円が寛永12(1635)年、宣如上人より寺号「雲晴寺」を賜り開基となる。「水莖山」の由来は、前記の2つの歌にある「水莖」であり、住職の苗字も 水莖 となった。
●当時、寺は現在のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン(旧北陸本線)親不知駅東側の向山ふもと、* 宮山地内の一角にあった。
*神社があり、寺が神社の管理をしていた。
●元禄7(1694)年、道場が* 石灰窯から出火した火災のため焼失したので、現在の地に仮のお堂を建て移転した。
*当時多くの家が石灰を焼いて暮らしていた。
●亨保14(1729)年、「現本堂を再建し、今日に至っている。境内の銀杏の木はその頃植えられたものである。当初は茅葺き屋根であった。昭和48(1973)年茅葺きの上にトタンを被せただけの簡易改修を経て令和3(2021)年、本堂の大改修を行って今日に至っている。
●庫裡は延享2(1745)年に建てられ、平成5(1993)年に再建された。令和5年11月5日 親鸞聖人750回ご遠忌法要 厳修予定。
住職
第18世住職 水莖芳英
2024(令和6)年5月現在
主な年中行事
★聞法会
4,5,6,7,10月の毎26日 10時~ 読経・法話
(人生相談のほかに総務省の行政相談委員として、行政相談も無料、秘密 厳守で行っている)
★お盆法要
8月7日 10時~
★春・秋のお彼岸法要
春・秋分の日 10時~
★永代経法要
11月第3土曜日 10時~
★報恩講
11月第3日曜日 10時~(各家庭でのお取越は、前後1週間)
★共同墓あり
永代供養料、納骨料は無料 維持管理費年間3,000円のみ
寺院紹介
歌碑(右 聖徳太子, 左 親鸞聖人) |
共同墓 |
歌碑の由来 |
聞法会 |
掲示板 |
報恩講での落語 |
国道8号線 駒返し洞門 |
駒返し洞門歌碑 |
よくある質問
A.はい、ございます。お車でお越しいただいても大丈夫です。
Q.参拝時間について教えて下さい。
A.特に時間は決めておりません。いつでもお参り下さい。
Q.雲晴寺の宗派はなんですか?
A.当寺は浄土真宗 真宗大谷派です。宗旨に関係なく、こころ穏やかにお過ごしいだたけるお伝いをさせていただきます。
Q.どんな相談内容を聞いてもらえますか?
A.信仰のこと、仏事に関すること、その他にもいろいろご相談に乗れると思います。
寺案内
- 寺院名
- 雲晴寺
- 所在地
- 〒949-0307 新潟県糸魚川市大字歌143
- 電話番号
- 025-562-2784
- FAX番号
- 025-562-2786
- 業種
- 寺院
- 営業時間
- 24時間対応
- 休業日
- なし
アクセス
- 鉄道
- 越後トキめき鉄道・日本海ひすいライン線・親不知駅徒歩5分
- 車
- 北陸自動車道・親不知ICから車で3分
- 駐車場
- 有